今は昔の物語 荒木 貞發氏
昭和12年(1937年)、その頃私はロンドン大学に学び、卒業後は現地で日産自動車に採用されそのまま英国駐在となった。ある日、当時の社長であった鮎川義介氏から特命を受けた。ナチス・ドイツで「国民車」という革新的な小型車が出来ていると聞いた、購入して日本に送れというものであった。
この時期、日本とドイツは同盟関係にあったので、ドイツ駐在の大島大使から添え状を貰って、ハノーバーからまだ単線であった列車に乗って、ウォルフスブルクの寒村に建設されていた国民車工場を訪ねた。折よくフェルディナント・ポルシェ博士に会うことができた。博士は工場はまだ一部稼動であり完成車もなくはないが、これは労働者手帖(KdF)保持者が月額5マルクずつ積み立て、それが500マルクに達したら車を渡すもので、法律上から車の売却は出来ない。しかし自分の設計に興味を持ってくれた事には感謝する、設計資料も渡すし何よりも工場に留まって、生産状況を見学してゆかないか、という真に親切な申し出を受けた。工場には博士の子息のフェリー氏がいて、同じ年配でもあり直ぐ仲良くなって、技術解説も丁寧に受けた。その時に供与された設計資料はそのまま日産本社に送ったが、開いて見ても当時の日産技術陣には何のことか、理解出来なかったのだと思う。
バックボーン・シャシーと一体化する応力外皮式のボディ。リヤエンジン、トーションバーなど、当時の日本の自動車技術者の通念からは、程遠いものであったと思う。またボディ外板を構成する薄板も無かったし、何よりも鋼板を溶着する電気溶接の技術もなかった。翌年日本に帰着後この設計資料の行方を探したが、ようとしてその行方は知れなかった。戦後かなり経てからオーストリーのツエルアム・ゼー湖畔の山腹に建つポルシェ家でフェリー氏と再会し、昔話に花を咲かせた数年後に氏は亡くなられた。
戦時中は応召して広東に駐留、内地に引き上げ後は名古屋に駐屯し自動車部隊に所属した。その折に、豊田自動車が刈谷市に本格的工場を建設着工するということで、軍の命令で工場に応援に出かけた。そのことを奇縁として豊田利三郎氏と昵懇となり、白壁町のご自宅に頻繁に招かれもした。ご子息の英二氏がまだ帝大の学生でいられた。豊田利三郎氏もトヨタ興隆の一翼を担われた賢人であるが、近年はその名を聞くこともない。昔に貢献あった偉人を日本自動車殿堂は掘り起こすという、そのことを楽しみにしている。
(2002年『JAHFA No.2』収録)