着物と車と人と自然について思う 河野 景近氏
私の本業は和服の販売を事業とする企業の経営者である。車と和服の間に何か関連するものがあるか、何も繋がりなどないと思われるかも知れないが、その実は存在する。和服も車もそれを選ぶ人の趣味や心情を洞察し得る物差しともなる、メディア性を持つ存在である。和服というものは現在の形に定着してから数百年に渡って、洗練の度合いを高めてきた。今では絶えてしまった昔の技法を、現代に再現しようと試みても困難であったことは、「辻ケ花」の例を見るまでもない。和服はそれを選ぶ人の趣味、人間性、人生観から引いては教養までも窺わせる、そうした意味合いを色濃く持っている。
車もまた然りである、同じような用途、同じような性能でありながら、それぞれ風合いの違う種類を求められる。それらの車にはそれぞれの人の好みが強く反映される。車も己が望むものを選んで乗り、和服もそれを着用する人の嗜好を、ともに表す感性の表意物である。それだけに人との結び付きが深い。日本の工業生産は進歩し文明を築いたが、文明というものの基盤はモノである。単なるモノとヒトとの関わりが、ココロの深みに到達するまでになったとき文明は文化へと昇華する。これからも人の心を映すに足りる多様な車を求め続けられる限り、車産業の未来は、その文化性が人間を繋ぎとめることによって、限りなく発展するものと考えられる。
私はまた近年、日本の河川の自然を守る運動に力を入れている、その一つに近年話題になった「川辺川」の問題がある。日本で自然の佇まいをそのまま残す清流の川といえば、誰もが四国の四万十川の名をあげるであろう。四国カルスト不入山に源を発し大きく蛇行しながら太平洋へと注ぐ清流である。しかし自然という点では熊本の川辺川も決してひけを取らない。その清流にダムを作るという、未だに尺余の鮎がとれる清流に、何のためにダムなどが必要であるのか。最初は水力発電のためといい、後では治水に名を変えたことでは諫早干拓と同様、公共事業のバラマキであって百害あって一利もない。上流に樹林の多いこの川は、自然のままにスムースに流れを保つことがその保全の理想である。
(2004年『JAHFA No.4』収録)